第0章 第15節 至誠の残響と魂の転写-「敗北感」という慈愛③-

そうだよ。俺は莉緒が愛おしくてならなかった。 

できることならその場で抱きしめて、その至誠を讃えてやりたかった。 

だが俺は道場では「先生」だ。他の門下生の目がある。 

俺は震える心の仮面を厚く塗り固め、今日も莉緒に、あえて冷たく「先生として」厳しい言葉を投げかけるしかなかったんだ。

莉緒が、あの「日本の神々に愛された娘」「大和撫子の卵」が帰った後の道場は、静謐だ。自分の息遣いが耳につくくらいに静まり返っている。

俺は一人、全ての窓を閉め、神棚のロウソクだけを灯したまま、神前に端坐、黙想する。神前で己に問うのはひとつだ。

「至誠に悖るなかりしか」

旧帝国海軍「海軍五省」の初発である。

そして続く四つの省語はすべて初発の「至誠」に収束していく。

「言行に恥づるなかりしか」

「気力に欠くるなかりしか」

「努力に憾みなかりしか」

「不精に亘るなかりしか 」

一日の仕事が終わり、神々から至誠を問われる日課として、俺はこれを己に課している。

内観、内省をすまし、神前に平伏した後、背筋を伸ばし、片膝を立て、そのまますっと立ち上がる。両手を床について立ち上がる、などという無様な真似は武術家の端くれとして厳に慎まねばならぬ。

神前を背に道場の出口に向かう途中、さっきまで莉緒が立っていた場所に視線を落とした。 そこにはまだ、彼女の小さな足が床を掴んでいた熱気と、あの一滴の汗の染みが、薄っすらと残っているような気がしてならない。

「莉緒、腰が高いぞ。もっと落とせ」 「声が小さい。腹から出せ」

さっきまで俺が彼女に投げつけていた、鉄のように冷たい言葉の数々が暗がりの壁に跳ね返り、俺の胸をグサグサと突き刺す。 

莉緒のあの真っ赤に上気した顔。

「むーっ!」と無言で痛みに耐えていた、折れそうなほど細い膝。 

本当はその場ですぐに駆け寄って、その小さな肩を抱き寄せ、「もういい、よく頑張った」と言ってやりたかった。

だが、俺は「先生」という仮面を剥がすわけにはいかなかったんだ。

莉緒。 

お前は俺の掌をギュッと握って聞いたな。 

「せんせいの痛いのは、だれが治してくれるの?」と。

俺が「癒す側」として誰にも見せなかった心の澱を、お前はその透き通った瞳で、一瞬で見抜いていたんだな。 

そして、道場ではあの裏返った「きょぉー!!!」という一生懸命な気合で、俺の澱んだ魂をいとも容易く祓い、禊いでしまったんだ。

俺は道場の出口で立ち止まるとピボットターンで回れ右をし、神棚に向かって深く、深く一礼をしたのち立ち直り、柏手をささげる。 柏手の音が誰もいない道場に鋭く、しかしどこか優しく響き渡る。そして再び一礼。

「・・・・よく、頑張ったな。莉緒」

誰もいなくなった道場の暗がりに向かって、俺はようやく「先生」の仮面をはずし、「俺」自身の声で独り言ちた。 

その瞬間俺の視界の端で、莉緒が言っていた「ぽわぽわ」とした光の玉がまるで莉緒の笑い声のように、フワリと揺れた気がしたんだ。

俺は鼻の奥に込み上げてくる熱いものを今度は隠す必要もなく、ただ静かに受け入れた。

そうだ、誰もいない。今だけは泣いてもいい。

莉緒。

お前を導いているつもりの俺が実は一番、お前に生かされている。

そんな格好のつかない真実を、今夜はこの道場の神様だけが知っていればいい。

そう思ったんだ。

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