第1章 第11節 暴走する食欲(エロス) ―脾虚湿盛の危機と瀬織の召喚―

「はぁ・・・・・。
別に岐阜タンメンでも構わんが、腹が空いているのなら別にグランドホテルで食べてもいいじゃないか。
お前の分くらいは出してやれるぞ?」

「先生、いいですか?
莉緒は今「美味しいもの」が食べたいのじゃなくて、「がっつり」食べたいんですっ!
カロリー?なんですか?それ。
年頃の乙女には食べて忘れたいこともあるんですっ!」

長良川の河畔。
先生の「大和撫子への教育的配慮」は、莉緒様の放った一撃で呆気なく霧散いたしました。
莉緒さまの瞳には、先ほどまでの絶望の影など微塵も残ってはおられませんでした。 

「(……がっつり、だと?何だそれは?!)」

「がっつり」 
その言葉が放たれた刹那、莉緒さまの喉元が期待に小さく鳴り、瑞々しい肌からは、つかさ様の冷徹な演算を焼き切るほどの『生の熱気』が立ち昇っていたのでございます。 夕闇が迫る河畔に響くその宣言は、もはや神託(オラクル)に近い重みを持って、先生が莉緒さまに幼き頃から説き続けてきた『大和撫子論』を粉々に粉砕して、余りあるほどの破壊力でございました。

「また訳の分からんことを・・・・。
じゃ、店まで乗せていってやる。
好きなだけ食べて、後は自分で帰れ。
お前の高校の近くじゃないか。バスの定期券、あるんだろ?」

先生は目の前の「ニホンカモシカ」が発する圧倒的な生命エネルギー(空腹)に、思わず気圧されてしまいました。
それは、つかさ様という「完成された美」に打ちのめされた、彼女なりの禊ぎ(みそぎ)でございました。
先生が莉緒さまの「理解不能な禊ぎ」へ、理性で対抗しようとした刹那、莉緒様は既に「次の戦場」へと駒を進めていたのでございます。まさしく先生譲りの「神速の聖俗往復」でございますわね。

「何言ってるんですか?当然先生のおごりですよね?
先生も付き合うんですよ?当たり前でしょ?
瀬織ちゃんも呼んじゃおっと。
もしもし?瀬織ちゃん?
今さ、グランドホテルにいるんだけどさ、うんうん、先生と一緒。
岐阜タンメン、先生おごってくれるって!
チャーハンもつけていいみたいだよ!?来ない?」
莉緒様は、同志瀬織様に先生包囲網の参陣を持ち掛けられました。

「(……おい、勝手にチャーハンまで付けるな!)」
莉緒様、容赦がないですわね。先生に甘えているのが丸わかりです。うふふ。
先生、もう観念なさった方がよろしいですわ。

「(思春期の食欲は底なしに旺盛とはいえ、私まで付き合う義理はない!)」
先生の脳内では、経穴図が赤く点滅し、東洋医学的な警告灯が激しく点滅いたしました。
濃厚なスープ、油の乗ったチャーハン。
夕食前の中途半端なこの時間にそれらを摂取すれば、脾(ひ)の運化が滞り、余分な湿(しつ)で体が重怠くなってしまいます。武人として自己規律と節制を旨とする先生にとって、地獄への招待状としてその眼に映ったのでございます。

「(脾虚湿盛(ひきょしつせい)など、ゴメンだ……!)」
私がそう決意した最高のタイミングで、莉緒がスマホをスピーカーモードにし、私に突きつけた。

スマホ越しに瀬織の声が聞こえる。
「わあ、先生!私にもおごってくれるんですか?
うれしい!行きますよ!行きます、行きます!」という、鈴を転がすような歓喜の声。

その一撃がトドメとなり私の『脾』を守るという、東洋医学的な最終防衛ラインを莉緒と瀬織の共同戦線が、いとも容易く突き崩したのである。

武人として、己の体を律しようとする先生の足掻きを余所に、事態は「瀬織様」の合流という最悪の、あるいはことによっては「最高の」包囲網へと発展していくのでございます。

莉緒さまは即座にスピーカーモードを受話モードに切り替えると、

「先生!瀬織ちゃん岐阜公園まで来てるって!行こ行こ!
瀬織ちゃんも車に乗せてって下さいね!」

先生は激しい頭痛を覚え、こめかみを揉みながら天を仰がれました。
そして、当然の疑問。なぜ莉緒さまは「ここ」へ来ることができたのか?先生が場所を教えてもいないのに?

「(・・・・・なんで、こうなった?
俺はつかさに呼ばれてグランドホテルまで来ただけなのに・・・・。
第一、莉緒はどうして俺の居場所がわかるんだ?
そういや昨日、コソコソと俺のスマホをいじっていたな・・・・。
アレかっ!昨日、俺のスマホを覗き込んで『このアイコン、可愛いね』とか笑っていた莉緒の指先……!
気を許したすきに一瞬で莉緒にスマホを奪われた・・・・・・(絶句))」

物理的な刺客さえ気配で読み取り、争わずに退ける先生の全方位警戒が女子高生の「あざとい指先」ひとつで無力化されていたという事実。

このセキュリティ・ホールこそが、今だ形を成さぬ至誠塾の『アキレス腱』であり、先生の『人間味』という名の魅力なのでございます。これが凶と出るか吉と出るか・・・・。それは神のみぞ知る。

莉緒さまから受けた先生の「絶望」は、つかさ様との対話とは別のベクトルで、今まさに現実を侵食し始めていたのでございます。うふふふ。

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