第1章 第10節 長良川の絶対領域 ―ニホンカモシカの逆襲―

「莉緒ーーーー、どこだ?返事しろーーーー!。」

足場の悪い茂みを掻き分け、私はつかさに言われた通り、間もなく夕焼けの光を跳ね返すであろう長良川の河川敷へと足を踏み入れた。

「(莉緒め……よくこんな、足場の悪いところを駆けていったな。あいつの前世はアイベックスかシャモアか?いやいや、そんないいものではないな。ま、あいつの足ならニホンカモシカが妥当なところだ。)」

先生は聞こえないことをいいことに、小声でぶつぶつと莉緒さまを軽く貶しながら、その瞳は必死に愛弟子の姿を探しておられました。果たして金華山を正面に臨む河川敷の特等席に、莉緒さまは長良川と金華山に向かい、両拳を握りしめて仁王立ちになっていらっしゃったのでございます。

「(……仁王立ち、か。ふむ、下肢には気が満ちているな。)」

紺色のブレザーに、膝上までまくり上げられた同色のプリーツスカートが、長良川の川風に煽られ、その端が莉緒の腿の「聖域」を叩くように激しく翻っている。白いハイソックスの上では露わになった健康的な膝裏が夕映えの中で白く輝いていた。
「(……ほう、あの大腿部。しっかりと大腿二頭筋が張っているな。まさにカモシカのような躍動感だ。下肢の強靭なバネが、莉緒の感情の乱れを跳ね除けたか。)」

白いハイソックスが膝下でわずかに下腿に食い込む。
夕映えの残光がその膝裏の窪みに溜まり、淡く翳を描いていた。
濃紺のブレザーの後姿で、肩がわずかに上下している。
「(なぜ息が上がってるんだ?絶叫でもしたか?)」
おそらく、宗気を込めて発声したかのような気の上逆の痕跡が背後から読み取れるが、今はしっかりと気が丹田に収まっている。

「(スカートの端とハイソックスの間の生足を「絶対領域」とかいうんだったな・・・・?
いや、今はそのようなことはどうでもよい。
莉緒め、あれほど軽々しく素足を晒すなと、口を酸っぱくして教えたものを膝上スカート丈とは・・・・・。
もうそろそろ年頃の娘の自覚を持ってもらわねば、莉緒の父親に申し訳が立たん。
後は護身術の難易度レベルも上げてやらねばな。)」

武術家としての、そして「父性」という名の至誠。先生は絶叫を終えて憑き物が落ちたような彼女の背中に、精一杯の「師匠」としての声をお掛けになったのでございます。

「莉緒、お前こんなところで何やっている?
急に駆け出すとはお前はいたずらが見つかった子供か?
帰るぞ。送っていってやる。車に乗れ。」
先生に声をかけられて振り向いた莉緒様の表情は、先程までの「絶望」も「羞恥」も飲み込んで、驚くほどスッキリとしておられました。そして彼女の小さくみずみずしい唇から零れ出たのは武を修める志とは180度異なる、あまりにも拍子抜けの言葉・・・・。その言葉は先生の気が抜けるには十分すぎるものだったのでございます。

「先生。莉緒、お腹空いちゃった。……岐阜タンメン、食べに行こ?」
振り返った莉緒の顔には涙の跡を隠すような、それでいてすべてを達観したような「無防備な」そして「屈託のない」笑みが浮かんでいた。
莉緒のブレザーの胸元で踊る、学校指定の紺色のリボン。
その羽根が長良川の川面を渡る風に吹かれて不規則に踊り、揺れていた。
莉緒の胸元のリボンは秘めた胸の鼓動を視覚化するメトロノームであるかのように不規則に、しかし力強く、私の視線を翻弄し続ける。

莉緒の言葉を反芻しながら、それを私はぼんやりと眺めていた。
私が先ほどグランドホテルのラウンジでまとわざるを得なかった「緊迫感という名の鎧」が、莉緒の胸元で長良川の風に揺れるリボンを見つめているうちに、カランカランと音を立てて崩れ落ちていく・・・・ような気がした。

莉緒の唇が動くたび、夕焼けを反射する唇の瑞々しい光沢が、私の網膜に『救い』という名の残像を焼き付ける。
私の胸中で「緊迫感という名の鎧」が崩れ落ちたのではなかった。
本当は、莉緒が発する理屈を超えた若き「生命」の熱量に、私の緊張は完膚なきまでに溶かされてしまっていたのだ。

「……ああ、わかった。野菜増量、酢多めにするんだぞ?
(はぁ・・・・急に駆け出したと思ったら、何言ってるんだ?こいつは?
思春期の娘の考えていることはよく分からん。)」 
先生がようやく吐き出そうとされた小言は、「娘」への愛おしさの方が勝り、夕風にさらわれて消えていったのでございます。

夕焼けに翳る金華山を背に、空腹という生命の煌めきを満たすため、意気揚々と車へと歩き出す「娘」。そして「娘」の食欲に翻弄される苦悩を奥歯でかみつぶし、苦笑する先生の背中を、伊吹山に沈もうとする西日の残光がやさしく包んでいました。
この後、まもなく先生から放たれる「保護者としての小言」と、莉緒が放つ生命の煌めき、つまり「無敵の空腹」が激突することになるのでございますが・・・・・・。

さて、・・・・・一体、どうなりますことやら。

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