莉緒はドンくさかった。はっきり言って武術のセンスはない。
だが、練習だけは誰よりも「烈しかった」。
気合の声一つとってもそうだ。皆が揃って「オー!」と野太い声を出す中で、莉緒だけは勢いあまって声がひっくり返ってしまってな、甲高い「きょぉー!!!」を道場に響かせる。
その「きょぉー!!!」が響くたび、道場の張り詰めた殺気が不思議と清らかな温もりに塗り替えられていくんだ。ほかの門下生や兄弟子たちはくすくす笑っていたがな、当の本人は全く意に介さず、ひたすら修練に励んでいた。
俺は噴き出しそうになるのを堪えながらも、この不器用な魂の輝きに目頭が熱くなったのは一度や二度ではない・・・・・。
莉緒は他の子よりも成長は遅かったが確実に技を身に着けた。
武術はセンスだけではない。伸びようとする強い気持ちが、なによりその成長を後押しする。莉緒には武術のセンスはなかったが、伸びよう、強くなろうとする情熱は常人を凌駕していた。
武術の修行に王道はない。もちろん到達点の個人差はあるがな。技の巧緻を競うのが目的ではなく、昨日の自分よりどれだけ今日の自分がステップアップしたかの方がはるかに重要なのだ。いまこの現代において、殺人術であった武術をそのまま使うことのほうが狂気だろう?
武術の修行テクニックは、いまの自分の心身のパフォーマンス向上にこそ向けられるべきなのだ。
「俺のほうが強い!」
ま、初学者であればそれでもよかろう。だがどこまで強くなれば満足なんだ?
日本一か?世界一か?トーナメントでの優勝か?それとも「あいつよりも強い!」という矜持を持てればいいのか?
いつまで延々と他者との競争を続けるんだ?死ぬまでか?
そこから何を学ぶ?「あいつ」を超えれば、次の「更に強いあいつ」が現れるぞ?
いつまでこの無意味なラットレースを続けるつもりだ?
バトル漫画じゃないんだぞ?
いずれヒトは老いる。いつまでも若いころの気力と体力のままではないのだ。その変化を受け入れねばならぬときが必ずやってくる。その時に残るのが「強いか、弱いか」という他者との比較だけなんて、あまりにも寂しいじゃないか。
そうは思わないか?
武術だけでなく、あらゆる「習い事」は克己、つまり己の技術の「守破離」をこそ目指すべきなのだ。超えるのは昨日の自分の限界であって「あいつ」ではないのだ。
続ける。
俺は莉緒から最大の「奥義」を学んだ。
それは莉緒のコーチングだ。
彼女は説明が上手いわけでも、技が完璧なわけでもない。なのに、莉緒が弟弟子たちに「こうだよ!」と教えると、皆がその場で技を理解し、体現してしまう。 なぜだ? 俺は彼女を観察し、そして気づいた。
莉緒は技術を教えているんじゃない。
「できた時の喜び」や「師への思慕」、その魂の震え(バイブレーション)を、そのまま相手に転写しているんだ。
「技を伝えるというのは、魂の継承なのだ」
俺は莉緒の小さな背中から、武術の、そして人間としての「真髄」を教えられたんだよ。

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